2013年 06月 13日
愚痴とかなんとか9:恐怖と不安に向き合う |
乳がんに対して思うことは人それぞれなんだろうと思うものの、私は少なくとも
「悪いところを取っちゃったから、もう、私は大丈夫!」
みたいな、完全にポジティブな方向に思考を向けることができません。
がんを告知された患者の精神的反応
がんを告知された患者が、精神的にどんな反応をするかというのが、ちょうど「がん情報サービス」に、「がん告知マニュアル」としてありました。たぶん、普通の方はだれもがこの段階モデルを経験するのではないかと思います。
ほうほう、という感じですね。
たしかに、この段階を自分も踏んできたなぁと思いますが、人によって実際は第1相にいるときも、第3相において取るようなことを行ったりするんじゃないかと思っています。
例えば、私は告知を受けたその場で、ショックを受けながらも、現実と向き合おうとしている(第3相)のですよ。ただし、そこで説明された内容に関して、今メモを見ると、動揺していたからか、いつにも増して字が汚くて読めない(笑)ので、たぶん、第1相と併用していた感じなのかな、などなど。
過去を分析して、未来を予測する
最近は第3相に完全に入ったようで、これまでの自分が取ってきた行動というのを見直す機会が増えました。このblogもその一環で、自分の文章から、心の動きというのが非常によくわかります。そんな振り返りをすることで、少しずつ、いったい自分は恐怖や不安とどうやって向き合おうとしているのかが、やっと見えてきたような気がします。
それによると(って他人事みたいですけど)、どうやら私が恐れを抱いていることというのは大きく分けると2つあるようなのですが、それぞれの時間軸が微妙に違うことに気が付きました。
A 乳がんという病気になったということ対する恐怖(事実)
B 乳がんという病気になったことで、将来起こるかもしれないことに対する不安(可能性)
Aに関しては、現在進行形なので、「治療」という形で、現在の治療方針を進めていくしかありません。それを進めること以外にどうしようもないので、治療により恐怖を減らしているということになります。
Bに関しては、確率と未来の話なので、正直な話をすると現時点でできることはありません。事実に対する治療を行うことで、不安は減らせているとも思うのですが、あまり根本的な解決にはなってないんですね。というか、未来におこる可能性を現在から完全に操作することはできないので(起こる可能性を減らすことはできますが)、どうするんだという話になるんじゃないかと思います。
そこで、私が行っているのは、不安をできるかぎりを現在において可視化していくということです。例えば、再発の可能性があるのはわかってるんですが、じゃあ、その再発の可能性ってどれぐらいあるの?など、この先起きるかもしれないことをすべて可視化していくわけです。
もしかしたら、その可視化したこと全部が、自分に起きるかもしれないのですが、少なくとも、それを知ることにより、不安の質を変えられているような気がします。もちろん、最悪は「死」なのですが、少なくともそこにたどり着くまでには、いろいろな関門があるわけで、それを可能な限り知っておく。そして、自分に起きるかもしれないということを理解しておく。いわば、不安を見えない不安のままにせず、見える不安にしているということでしょうか。もちろん、可視化したことが自分に起きたら、その時、実際に心がどう動くかはわかりません。ただし、それは可視化できることではないので、現時点ではどうしようもないと思っています。
この、不安の可視化は、最初は無意識のうちにやっていたようなのですが、自分のこれまでを見直すことで気が付き、最近は意識して行うようになりました。ただ「可視化=知る」ことが、誰にとっても最適であるとも思いません。知らない方がよい人というのもいらっしゃるとは思うのですが、少なくとも私にとっては、見えない不安を1つ減らすことで、見える不安と向き合えるのです。
もちろん、最初に書いたとおり、恐怖も不安もなくなったわけではないのですが、ある程度自分でもコントロールできるのかもしれないということにぼんやりと気が付いたので、そうできるように努力していこうと思っています。
たまに知り合いでこのblogを見てくださった人から「内容が淡々としている」と言われるのですが、ここに書いたとおり、私の日常はまったく淡々としてません。恐怖と不安を感じない日はないです。ただ、恐怖や不安そのものは言葉にはしにくいので、淡々としているように見えるのかもしれないです。
あとは、仕事で人に読んでもらう文章を扱っているので、最低限「人が読む」という視点で文章を書いているから客観性がやや高めかもというのがあると思います(いや、十分主観的です)。しかし、自己採点でこれらの文章のクオリティは非常に低いですし(仕事じゃないので許して)、自己満足です、やっぱり。あはは。
「悪いところを取っちゃったから、もう、私は大丈夫!」
みたいな、完全にポジティブな方向に思考を向けることができません。
がんを告知された患者の精神的反応
がんを告知された患者が、精神的にどんな反応をするかというのが、ちょうど「がん情報サービス」に、「がん告知マニュアル」としてありました。たぶん、普通の方はだれもがこの段階モデルを経験するのではないかと思います。
2)告知に対する精神的反応
がんを告知された後に患者が示す通常の反応として、Holland JCら(1990)は、次のような段階モデルを考えだしたが、他にもほぼ同様の報告がなされている。
(1) 第1相;初期反応期/1週間以内
まず、告知された内容を信じようとしないか、一時的に否認することで特徴づけられる。患者は後になってその時のことを、「頭が真っ白になって、まるで自分自身におこっていることではないかのようだった」と述べることがある。
また、ある人達は「やはりそうだったか」という絶望感を経験する。
(2) 第2相;苦悩・不安の時期/1~2週間
苦悩、不安、抑うつ、不眠、食欲低下、集中力の低下などの症状が交互に何度もやってくる。不安が強く集中力が低下しているために、同じことを繰り返し尋ねてくる時期でもある。
(3) 第3相;適応の時期/2週間以後1ヶ月~時には3ヶ月
現実の問題に直面し、新しい事態に順応するようになる。またそう努める。
なお、112人を調査し、立ち直りに1ヶ月以上要した11人のうち9人までが早期胃がんの患者であったという報告があることから(笹子、1992)、ショックの程度や立ち直りに要する時間は病期や予後と必ずしも相関しないことが示唆されている。
ほうほう、という感じですね。
たしかに、この段階を自分も踏んできたなぁと思いますが、人によって実際は第1相にいるときも、第3相において取るようなことを行ったりするんじゃないかと思っています。
例えば、私は告知を受けたその場で、ショックを受けながらも、現実と向き合おうとしている(第3相)のですよ。ただし、そこで説明された内容に関して、今メモを見ると、動揺していたからか、いつにも増して字が汚くて読めない(笑)ので、たぶん、第1相と併用していた感じなのかな、などなど。
過去を分析して、未来を予測する
最近は第3相に完全に入ったようで、これまでの自分が取ってきた行動というのを見直す機会が増えました。このblogもその一環で、自分の文章から、心の動きというのが非常によくわかります。そんな振り返りをすることで、少しずつ、いったい自分は恐怖や不安とどうやって向き合おうとしているのかが、やっと見えてきたような気がします。
それによると(って他人事みたいですけど)、どうやら私が恐れを抱いていることというのは大きく分けると2つあるようなのですが、それぞれの時間軸が微妙に違うことに気が付きました。
A 乳がんという病気になったということ対する恐怖(事実)
B 乳がんという病気になったことで、将来起こるかもしれないことに対する不安(可能性)
Aに関しては、現在進行形なので、「治療」という形で、現在の治療方針を進めていくしかありません。それを進めること以外にどうしようもないので、治療により恐怖を減らしているということになります。
Bに関しては、確率と未来の話なので、正直な話をすると現時点でできることはありません。事実に対する治療を行うことで、不安は減らせているとも思うのですが、あまり根本的な解決にはなってないんですね。というか、未来におこる可能性を現在から完全に操作することはできないので(起こる可能性を減らすことはできますが)、どうするんだという話になるんじゃないかと思います。
そこで、私が行っているのは、不安をできるかぎりを現在において可視化していくということです。例えば、再発の可能性があるのはわかってるんですが、じゃあ、その再発の可能性ってどれぐらいあるの?など、この先起きるかもしれないことをすべて可視化していくわけです。
もしかしたら、その可視化したこと全部が、自分に起きるかもしれないのですが、少なくとも、それを知ることにより、不安の質を変えられているような気がします。もちろん、最悪は「死」なのですが、少なくともそこにたどり着くまでには、いろいろな関門があるわけで、それを可能な限り知っておく。そして、自分に起きるかもしれないということを理解しておく。いわば、不安を見えない不安のままにせず、見える不安にしているということでしょうか。もちろん、可視化したことが自分に起きたら、その時、実際に心がどう動くかはわかりません。ただし、それは可視化できることではないので、現時点ではどうしようもないと思っています。
この、不安の可視化は、最初は無意識のうちにやっていたようなのですが、自分のこれまでを見直すことで気が付き、最近は意識して行うようになりました。ただ「可視化=知る」ことが、誰にとっても最適であるとも思いません。知らない方がよい人というのもいらっしゃるとは思うのですが、少なくとも私にとっては、見えない不安を1つ減らすことで、見える不安と向き合えるのです。
もちろん、最初に書いたとおり、恐怖も不安もなくなったわけではないのですが、ある程度自分でもコントロールできるのかもしれないということにぼんやりと気が付いたので、そうできるように努力していこうと思っています。
たまに知り合いでこのblogを見てくださった人から「内容が淡々としている」と言われるのですが、ここに書いたとおり、私の日常はまったく淡々としてません。恐怖と不安を感じない日はないです。ただ、恐怖や不安そのものは言葉にはしにくいので、淡々としているように見えるのかもしれないです。
あとは、仕事で人に読んでもらう文章を扱っているので、最低限「人が読む」という視点で文章を書いているから客観性がやや高めかもというのがあると思います(いや、十分主観的です)。しかし、自己採点でこれらの文章のクオリティは非常に低いですし(仕事じゃないので許して)、自己満足です、やっぱり。あはは。
by sunday_tourist
| 2013-06-13 18:31
| どうでもいいこと