2013年 10月 26日
終わりの感覚(The Sense of an Ending) |
この1週間は、個人的にいろいろなことがあって、やっと今日一息ついたという感じ。
台湾の滞在の主たる目的は友人の葬儀への出席なのだが、帰国して日本の携帯電話に電源を入れた瞬間、母から着信が。
「おじいちゃんが今朝、亡くなった」
実は台湾を離れる際、本当に飛行機に乗り込む瞬間にも、母から着信があった。
が、理由はわからないけれども、なんとなくよくないことだろうと察知し、飛行機の中で動揺したくなかったから、あえて無視して帰国の途についた。そのとき、もし、危篤だと言われても、そこから駆けつけるには3時間以上かかるので、知ったところでどうしようもない。日本に帰ってから対処しようと思い、飛行機の中ではずっと本を読んでいた。
ジュリアン・バーンズはイギリスの作家。
この作品は2011年にブッカー賞(イギリス連邦の芥川賞のようなもの)をとり、昨年末に翻訳書が出たので買っておいたのだが、なんやかんやと時間がなく、やっと読めたという感じ。
この本は二部構成になっていて、主人公は現在、現役を引退してそれなりに穏やかな生活を送る60代の男、トニー。第一部では、1960年代に過ごした彼の学生時代の話を1人称で語っていく。高校生時代の三人組に新しくエイドリアンが加わり、四人組になったところから話は始まる。エイドリアンは四人組の中でもっとも知性に溢れており、主人公もそれを認めている。大学生になったトニーはヴェロニカという女学生とつき合い始め、その恋が終わりをむかえたのち、なんとエイドリアンと付き合っていたという事実を知る。その後しばらくして、エイドリアンが自殺したという事実を知る。
第二部では、60代になったトニーが、自殺したエイドリアンの日記をヴェロニカの母がトニーに遺産として残したという手紙を弁護士から受け取ることで話が動き出す。しかし、その日記はヴェロニカが持っており、トニーの手にはなぜか渡らない。なんとかしてその日記を取り戻そうとするトニーは、昔の記憶と事実を照らし合わせ、その日記の謎を解いて行く。
という感じで、あらすじを書くとサスペンスっぽいのだが、ジュリアン・バーンズの作品だけあって、一筋縄ではいかない。どんでん返しが待つ最後までたどり着くと、この話の主題がサスペンスではなかったということに、気がつく。
それは、生きることとは過去を思い出すことで、その過去は年月を経ることで書き換えられて行くということ。そして、人は過去の記憶というものを都合のいいように改ざんすることで生きていくのにも関わらず、自分のとった行為の責任から逃れる事はできないのだ。過去の記憶に関する自分勝手な主観と、実際に起きたことという客観の矛盾を見事に突いた作品だった。
飛行機を降りて、母からの電話を受け、baggage claimの影でこっそり泣いた。
思い出というのはいつでもおぼろげで、思い出すという行為は、その輪郭をなぞることだ。その輪郭を、自分の勝手な主観で埋めることで、思い出はやっと成り立つ。
そして、その輪郭が自分の手によって鮮明になることは二度とないのだ。
祖父は実家で就寝中に92歳の生涯を閉じた。
前日の夜まで食事をして、そのまま永遠の眠りについた。
びっくりするぐらいに、安らかな顔をしていて、本当に寝ているだけのような感じだった。
私が台湾に行く前に実家に寄ったときも、会話はできていた。
ちょっとここでも書いていたのだが、祖父はこの夏に食道がんの診断を受け、その後は無治療だった。
食道と胃の繋がる場所に腫瘍ができ、それによって食道が塞がり、食べ物を戻してしまうという症状によって発見されたのだが、年齢的なものや腫瘍がかなり大きかったので治療は一切しなかった。
そのかわりに、ステントと呼ばれる器具で食道を広げ、その後は普通に食事も取れるようになった。
そして、がんによる辛い症状は一切出てなかった。
実家に帰って死亡診断書を見ると、死因に「食道がん」とある。直近の診断がそれしかないので、そのまま死因となったようだ。
解剖はしなかったので、本当の死因はわからないが、恐らく、死因はがんではないんじゃないかと私を含めた家族のみなは思っている。
つまり、現在は日本人の3人に1人ががんで死ぬと言われているが、実際はこんなケースもかなりの数がふくまれているのかも、とふと思った。
台湾の滞在の主たる目的は友人の葬儀への出席なのだが、帰国して日本の携帯電話に電源を入れた瞬間、母から着信が。
「おじいちゃんが今朝、亡くなった」
実は台湾を離れる際、本当に飛行機に乗り込む瞬間にも、母から着信があった。
が、理由はわからないけれども、なんとなくよくないことだろうと察知し、飛行機の中で動揺したくなかったから、あえて無視して帰国の途についた。そのとき、もし、危篤だと言われても、そこから駆けつけるには3時間以上かかるので、知ったところでどうしようもない。日本に帰ってから対処しようと思い、飛行機の中ではずっと本を読んでいた。
ジュリアン・バーンズはイギリスの作家。
この作品は2011年にブッカー賞(イギリス連邦の芥川賞のようなもの)をとり、昨年末に翻訳書が出たので買っておいたのだが、なんやかんやと時間がなく、やっと読めたという感じ。
この本は二部構成になっていて、主人公は現在、現役を引退してそれなりに穏やかな生活を送る60代の男、トニー。第一部では、1960年代に過ごした彼の学生時代の話を1人称で語っていく。高校生時代の三人組に新しくエイドリアンが加わり、四人組になったところから話は始まる。エイドリアンは四人組の中でもっとも知性に溢れており、主人公もそれを認めている。大学生になったトニーはヴェロニカという女学生とつき合い始め、その恋が終わりをむかえたのち、なんとエイドリアンと付き合っていたという事実を知る。その後しばらくして、エイドリアンが自殺したという事実を知る。
第二部では、60代になったトニーが、自殺したエイドリアンの日記をヴェロニカの母がトニーに遺産として残したという手紙を弁護士から受け取ることで話が動き出す。しかし、その日記はヴェロニカが持っており、トニーの手にはなぜか渡らない。なんとかしてその日記を取り戻そうとするトニーは、昔の記憶と事実を照らし合わせ、その日記の謎を解いて行く。
という感じで、あらすじを書くとサスペンスっぽいのだが、ジュリアン・バーンズの作品だけあって、一筋縄ではいかない。どんでん返しが待つ最後までたどり着くと、この話の主題がサスペンスではなかったということに、気がつく。
それは、生きることとは過去を思い出すことで、その過去は年月を経ることで書き換えられて行くということ。そして、人は過去の記憶というものを都合のいいように改ざんすることで生きていくのにも関わらず、自分のとった行為の責任から逃れる事はできないのだ。過去の記憶に関する自分勝手な主観と、実際に起きたことという客観の矛盾を見事に突いた作品だった。
人生の終わりに近づくと—いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと—人にはしばし立ち尽くす時聞が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか……。そう自らに問いかけるには十分な時間だ。
飛行機を降りて、母からの電話を受け、baggage claimの影でこっそり泣いた。
思い出というのはいつでもおぼろげで、思い出すという行為は、その輪郭をなぞることだ。その輪郭を、自分の勝手な主観で埋めることで、思い出はやっと成り立つ。
そして、その輪郭が自分の手によって鮮明になることは二度とないのだ。
祖父は実家で就寝中に92歳の生涯を閉じた。
前日の夜まで食事をして、そのまま永遠の眠りについた。
びっくりするぐらいに、安らかな顔をしていて、本当に寝ているだけのような感じだった。
私が台湾に行く前に実家に寄ったときも、会話はできていた。
ちょっとここでも書いていたのだが、祖父はこの夏に食道がんの診断を受け、その後は無治療だった。
食道と胃の繋がる場所に腫瘍ができ、それによって食道が塞がり、食べ物を戻してしまうという症状によって発見されたのだが、年齢的なものや腫瘍がかなり大きかったので治療は一切しなかった。
そのかわりに、ステントと呼ばれる器具で食道を広げ、その後は普通に食事も取れるようになった。
そして、がんによる辛い症状は一切出てなかった。
実家に帰って死亡診断書を見ると、死因に「食道がん」とある。直近の診断がそれしかないので、そのまま死因となったようだ。
解剖はしなかったので、本当の死因はわからないが、恐らく、死因はがんではないんじゃないかと私を含めた家族のみなは思っている。
つまり、現在は日本人の3人に1人ががんで死ぬと言われているが、実際はこんなケースもかなりの数がふくまれているのかも、とふと思った。
by sunday_tourist
| 2013-10-26 18:58
| どうでもいいこと